大学生。それも親元を離れて一人暮らしを始める僕は、これから始まるであろう新生活に心踊らせていた。ポケットのスマホには数ヶ月前にインストールしたゲイアプリ。地元では周りに人が全然いなかったため、無用の長物と化したツールであったが今は違う。その時、僕は高校3年間で夢を見続けてきた月9ドラマ並みの恋愛が叶うと本気で思っていたのだ。なぜなら大抵のドラマの舞台は東京。人が行き交い文化の最先端をゆく街だったらゲイにだって素敵な出会いがワンサカあるはず。
そんな思いは桜とともに散ることとなる。
大した出会いがなかった。というか素敵な出会いに繋げるまで色々と大変なのである。相手との物理的距離や(もうちょっと都心に住みたいと何度思ったことか)、相手の内容(親より歳の離れた人からの情熱的な求愛を、あなたは受けたことがあるだろうか)そのほか様々な要素の上に出会いというものは成立することに気づいた。僕の頭から月9ドラマ風のテレビタイトルが少しずつ風化していくのを感じた。
まあ仕方がないと思いながら、大学生生活にも慣れきった頃のことだ。僕は懲りずに細々と続けていたアプリ「AMBIRD」で、ある人と知り合う。彼の名前を仮に田中くんとしよう。
田中くんは僕より2、3ほど年上なのにずっとメッセージは敬語のままだった。年長者には絶対的な権力が与えられる田舎で育った僕には、それがとても新鮮でスマートに感じられた。そして話を交わしていけば、なんと彼は僕と同じ大学に通っていると言うではないか。
そう、夢にまで見た憧れのスクール・ラブが!月9ドラマが!これぞ東京!これぞマッチングアプリ!僕の視界は本当に薔薇色のフィルターがかかったようだった。
桜の木に緑の葉が生い茂る初夏、僕たちは近くの駅で待ち合わせをして小洒落たイタリアンレストランに入った。田中くんは実際に会っても、やはりスマートで彼からは東京の匂いがするような気がした。沈黙が起こらぬように次から次に話を繰り広げる僕を、「聞いてるよ」と言うような優しい目で微笑む田中くん。そんなことされてキュンとこないわけがない。その時食べた、ほうじ茶ジェラートの香ばしい味を思い出すと胸が締め付けられるってなもんである。
あ〜、あの時間のドーパミンの分泌量は僕の人生のかなり上位をマークしていたのではなかろうか。
余談だが最もドーパミンが分泌された瞬間は、幼い時に弟と風呂場で大喧嘩したときだ。(その後弟は肩を脱臼し救急病院へ連れてかれた。このことを思い出してもまた、胸が締め付けられる。)
食事が終わると僕たちは散歩をした。店内では話しにくい今までの恋愛遍歴や、どんな人がタイプなのかを互いに窺い合いながらたくさん笑った。
どうしよう。本当に笑いが止まらない。
それは、彼のタイプである男の特徴を僕は備え持っていたからだ。その時はまさに有頂天だったが、そりゃあアプリを通じて出会ったのだから彼のお眼鏡に全くかなわないことなんてないのである。
恥ずかしさや嬉しさを隠すために僕はどんどん歩みを早めた。それもあって心臓の鼓動は高速ビートを刻み血圧は上昇していき、脇汗もジャブジャブ分泌された。田中さんと会って数時間でこんなことになるなんて一体誰が想像できただろう。
今、まさに僕の月9ドラマは放送を開始したと確信した。ファーストシーズンの幕開けである。
それからは大学内の食堂で一緒にご飯を食べたり近所のカフェに行ったりした。友達でも恋人でもない関係に歯がゆいような、酔いしれるような不思議な気持ちになっていたのをよく覚えている。
ある日、そんな色々な意味で宙に浮いていた僕に田中さんは無邪気に笑ってこう言った。
「こんなにいい友達ができて嬉しい」と___。
その時も二人で散歩をしていたのだが、僕はなんとも言えない違和感を感じつつも何食わぬ顔で話を聞き続けた。
彼は周囲の誰にもカミングアウトはせず、恋愛の話をずっと封印してきたこと。
それによりミステリーボーイなどと呼ばれていたこと。
だから僕のような何でも話せる友人ができて嬉しく思っていること。
そして僕の恋路を応援したいと思っていること。
ここまで聞いて僕は捻挫しそうになった。いや、あの瞬間、心は間違いなく捻挫していたと思う。動揺を悟られないように必死になって足を動かした。歩くことにあれほどの努力を要したのは初めてだったと今でも思っている。田中さんにとって僕は同じ性的指向の友人に過ぎなかったのだ。
もう月9ドラマは終わった。放送休止だ。
その後ほどなくして田中さんは就職活動に身を投じて、連絡は途絶えた。それから季節は巡り、久しぶりに彼とのメッセージを見返してみると最後のやり取りから、ちょうど2年が経とうとしていた。僕のセンチメンタルがスパークしたのは言うまでもない。
今考えると、田中さんはまず単純に僕と友達になりたかっただけなのだと思う。マッチングアプリという恋愛が大前提にあるツールで出会った僕は、当たり前に目の前に現れた彼とすぐさま恋愛するものだと思っていた。しかし、そうじゃなくても良いのである。あくまでも人と人との出会いなのだから色々な関係性の築き方、進め方があって然るべきだ。田中さんとのこれからなんて今は誰にも分からない。僕はようやく気づけたのだ。
僕はいても経ってもいられなくなり、少し勇気を出してメッセージを送った。すると、あの時と同じように敬語とタメ口の混じった返信が届いたのだった。
まずは、いい友達から。
月9ドラマのセカンドシーズンだなんて、僕はもう思わないことにした。